障害は個性なのか。

珍しくちょっぴり真剣なテーマ。
今日、お仕事の中で、我が家の双子たちと同じ障害を持つお母さんと話す機会があり、久しぶりにいろいろと深く考えた一日でした。

障害といえど、いろいろなものがありますが、わが子たちの抱える障害は発達障害。
テーマにある、障害は個性なのか・・・・。
そう、この障害を個性と呼ぶことが結構多い世の中だな、と日ごろから痛感しているのだな・・・。

今日お会いしたお母さんも、自分の息子の障害を、個性ととらえようと一生懸命だった。
個性、個性・・・という言葉を何度聞いただろう。
ただ、なんとなく個性という言葉の中に、どうにかざわめく心を落ち着かせようとする願いがこもっているような響きでもやっぱりあったな・・・。

私も子供たちの事は割とオープンにしているので、それを知ったお友達や知り合いからも、少し違うところがあっても、それは個性よね。そんな個性を持っている子なんて沢山いるし、みんな紙一重のところもあるものね。

と、今までそうやって声をかけられたことも多かったな。

きっとそう言ってくれる人は、他のみんなとかわらないから気にするな!と激励の意を持って声をかけてくれるのだとは思うけれど、やっぱりその言葉には、オイオイちょっと待ってくれ?と、後味の悪さを感じてしまう私もいたりする。

そう、私はわが子たちの障害を全く持って個性とは思っていない。
個性というくくりで、この子達の不得意を片づけることは絶対に出来ないから。

だって、生活する中で、生きていく中で、普通の子供たちが難無く出来ていくことも、え?こんなことすらやり方を変え、学ばせて身に着けていかないといけないのだな・・・と、一つ一つフォローをしなくてはならないことが山のようにある。
個性だからとほかっておいても、生きていく上でどうしても身につけなくてはならないことを会得する事ができないのだ。

そういう不得意の部分をやっぱりよくわからない人が、個性と呼んでくれると、とてつもなく不安になる。
個性と片づけてしまい、本当は見なくてはいけない部分をどれだけ流されてしまうのだろうかと。

親として、最終的には子供たちが何とか自立して生きていける術をできるだけ沢山体得してもらうことが一番の役目と思っている。私たちがいなくても生きていけるように、本人の努力も必要だが、困ったときに「助けて」と両親以外にも手を伸ばす方法も教えていかなくてはならない。そうなのだ・・・そんなことすら教えなくてはならない。SOSを出すことがとても苦手な2人。そんなことすら・・・と思うことが星の数だけ2人には存在する。

障害からくる不得意と、性格からくる不得意は全く違う。そこを混同してしまうとおそらくとても大切なことはどんどん薄く消えて行き、やはり子供たちにとっては生きにくい環境になってしまう。
この障害の難しい所だな~と思う。

障害を持つ当事者や、家族が自分たちで個性と名付けるのと、他人が感じ取る個性とは意味合いもその責任も全然違うとは思うけれど、私も昔こだわっていたが、この「障害」という文字と「個性」という言葉の持つ意味が、とても似ているな~と感じる。

障害の害という文字。害ではないのだ、という意味で障がいと書いてみたり障碍と書いてみたり・・・・。
この頃はとても苦しくてもがいていたように思う。害なんかじゃなくて、この子そのものの生き方だ、それこそ個性なんだと思おうとしていたのかな。

でも、ある時その害という字が全く気にならなくなった。自分がその文字を使うこともあまり気にならなくなった。全く持ってその表記が気に入っているわけでもなく、好きでもないのだけれど、どうやらこだわりはなくなった。どうでもよくなったとかではなく、いろんなことを受け入れて前を向き始めたからなのかな。

前を向くと、やらなくてはならないことが沢山見え始め、そのやらなくてはならない事の量の多さに愕然とする日々も始まった訳だけれど、でも、やれることがあるのはやっぱり幸せで。
なかなかじっとしていられない私には、丁度よいくらいだったのかもしれないな(笑)。

これからも障害と共存して生きていく2人が、できるだけ不得意を克服しつつ、自分自身をあきらめたり自己肯定を薄くしたり・・・そう、二次障害を起こさないようにと、やっぱりフォローしなくてはならん事はたくさんある。手を放す時期を間違えてはいけないという緊張感も心の中にはずっとある。

それを過保護と言う人もいて、そんな言葉を放つ無責任さには何の思いもないけれど、私よいろいろ間違えるなと、やっぱり自分のやるべきことは、この子達の母親だからこそ理解できる特権なのだと懸命に自分を奮い立たせることもある。

そうやって、冒頭のお母さんといろいろ話していると、お母さんが最後に、「誰よりもこだわって、子供の懐にまず入って行かないといけない私が、やっぱり誰よりも遠い場所に今までいたんだな~って思います。」と言っていたのが印象的だった。
個性と障害と両方を兼ね備えたわが子に、それぞれ対応していく力を持たないといけないのだと、それが一番できるのは母親なんだねと、今さらながら2人でうんうんと頷いて手を取り合う・・・みたいなね。

そして、そんな風に捉えてくれる人たちが沢山側にいてくれたら幸せだねと願ったりね。私たちだけの役目と思わずに、私達も手を伸ばしていかないといけないね・・・・と。

そんなことを話しながら、ちょっぴり寒い一日、仕事を終えてトワイライトに子供たちを迎えに行くと、ほっぺを真っ赤にした2人がとびっきりの笑顔で駆け寄ってくる。
「今日はダンスを教えてもらったけれど、足も手もバラバラでちっともうまく踊れないんだ!タコ踊りみたいだったよ~!」と、自分の不得意をゲラゲラ笑い飛ばしてる2人。

そうそう、そういう逞しさもちゃんと兼ね備えてね。
子供たちは子供たちの生き方で、私は私のやるべきことを、ひとつひとつ大切に生きていったら、いろんなことにブレズに迷わずに、いや迷ったっていいわな(笑)。迷うに決まってる。

それでもいいから歩いて行こう。
Commented by こりり at 2012-10-26 11:57 x
私も自分の子供の障害を個性と捉えたことはありません。でも保護者の方が自分のお子さんをそう表現する気持ちもわかります。
ただ、通常の教師どころか、専門の指導者の中でさえも個性と捉えている人がいることが問題だと感じているというか、そこから発生する種々の弊害を危惧しています。「誰にでも不得意はある」と何度言われたことでしょう。それとこれとは違うと何度理解を求めたことでしょう。
でもこういう世の中で、生きていかねばならないのが現実なのですよね。大人になっても私が先に立って説明してまわることはできません。本人がどう適応していけるかに賭けるしかない。
そのためのカードをできるだけ沢山、自分の中にためる時期なんだと私も思います。SOSをだせる相手も親だけでなく他にもいた方がいいとか。
続きます。
Commented by こりり at 2012-10-26 11:58 x
続きです。
今相談室とタイムリーな話題になっているのは、性教育だったりします。やっぱり、こんなところも定型の人とは違ったアプローチ
が必要なんだって話をしていたりします。恋愛も大切ですという話、実は一番大切なことだったりするかもしれない話(笑)
今現在、随分下がっていた自己肯定感も安定してきています。やっぱり障害なんだと思って真正面から取り組んだ成果と思っています。過保護と言われようとも、出るときは出る準備はしておこうと思っていますよ。そして私も迷いながらも歩いていこうと思います。

Commented by sawa-rainbow at 2012-10-26 18:28
こりりさん

とっても長い日記を読んでくださってありがとう。
「誰にでも不得意はある」・・・そんな事を平気でのたまう専門家を専門家とは呼べませんね、まったく。
そういう人たちを藁をも掴む思いで頼っていくというのに・・・。

性教育・・・実はそろそろ気になっていました。うわ~、私も詳しく聞きたい!!ものすごく大きな壁を乗り越えなくてはならない気分でいます、はい。
また、いづれ相談に乗って下さい(笑)。きっとお父さんより断然こりりさんの方が頼りになるに決まってる!

ほんと、過保護と言い放つ人が決して何かあったとき、この子達の未来に救いの手を出してくれるなんてことはこの先絶対に無いので、私も誰よりの子供たちの理解者と、時として湧き上がる罪悪感のようなものを振り払って戦っていたりします。

お互い迷った時はゆっくり話したいですね♪
by sawa-rainbow | 2012-10-25 00:33 | 自分のこと | Comments(3)